ルリビタキ
私たちが物事を考えたり、認識したり、人に伝えるための道具の一つとして言葉があります。震災以前も実は随分形骸化した言葉を使い、言葉とその指し示す内実との乖離を放置してきました。震災以降は様々な場面でそのほつれが露呈しました。たまにテレビを観ると「被曝、放射能、汚染、子供たちの甲状腺癌」などの言葉は意地になって取り上げない。かわりに「立ち直る、復興、故郷の再生等・・」美談の化粧を施した言葉ばかりが踊って気持ちがわるい。
事象と乖離した偽の言葉を使わない。乖離した言葉があればそれを正す。名を正さねばなりません。しかも一回かぎりでなくダイナミックな運動として常に瞬間、瞬間。
先週、家の犬が逝ってしまった。今から思えば異変だったと思いあたるふしはあるが、本質に気付かなかった自分の鈍感さに驚く。
震災以降、自分にとって「生きる」という言葉はキーワードとなり繰り返し考えていたが身近な「命」のことさえ自分の体や感覚でとらえるができていなかった。
写真は工房の近くに時々顔をだすジョウビタキとルリビタキのメス。最後はありし日の「郷」
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- 2013年
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