最近、同じ著者「安富 歩」の本を一気に四冊と関連本を二冊読みました。「今を生きる親鸞」「原発危機と東大話法」「生きるための論語」「生きる技法」ノーバート、ウィーナーの「人間機械論」(人間の人間的な利用)「科学と神」(サイバネティクスと宗教)です。
震災後いろいろな人が自身の生き方や社会のあり方について考え、何か指針を求めている。自分としては、おぼろげに一対のキーワードにたどりつきました。「フィードバック」と「学習」です。生物は自身の生存をかけて常に外界の情報にフィードバックをかけ自身を調節しています。人間の場合は単純なフィードバックを繰り返す事にとどまらず、さらにその結果をフィードバックし、他の人々とコミュニケーションをとり、個人や社会のあり方を変更できます。これが「学習」。この様なフィードバックと学習が個人的にも社会的にも上手く発揮されていれば日本の残念な姿を見ずにすんだかもしれません。何がフィードバックと学習を妨げているのかを知れば明るい兆しも見えるかもしれません。
フィードバックを妨げているのは正しい情報が入らない事、日本社会の歴史的なりたちから陥っている思考方法、個人の生活態度にそごがあるからです。もう社会のシステムや政治を変えようとするより個人個人の生き方が変わらないかぎり再生は無いようです。安富さんの本は一見、原発の話から宗教、科学まで何の脈絡も無いかに見えるが人が生きるという点でバッチリ繋がっていたので一気に読むはめになった。そして少し腑に落ちる事ができました。
木工をやってきて、気が付いていた事。それは自分自身が今やっているものごとを正確に把握する事がとてつもなく難しいという事。たとえば寸法を何度も確かめながら、実際は間違っていても確かめたつもりになって、まさか間違っているはずが無いと、思考停止し、後で現実を突きつけられひどく落胆するという経験を何度もしました。何度も確かめているのに間違えるという事はその瞬間、瞬間、実は何も見ていなかったことになる。こうした経験を何度もしているので、自分では反省して繰りかえし寸法を確かめる様にしているのだが、それでもこうした事がしばしば起るのです。フィードバックをしているつもりでもしていない。たいがいそうしたバカな間違いを繰り返すのですが、その営みの中から何かを発見したり、知っているだけでなく、できる様になつた時には楽しく嬉しいものです。安富さんの本は宗教、哲学、科学、歴史、経済と様々な分野にわたっていますが底流には「生きるためのフィィードバックと学習」があり、それが自由にのびのびと行われている時に喜びや幸せがある事を示してくれています。学習が成り立つにはフィードバックが必須ですから変えられない現実も直視せねばならず、厳しい事です。しかしそうした葛藤のなかからしか光は見えないのかもしれません。
自分は漢文の素養がないので生きるための論語は少し苦労しましたが、四冊のうちどれでも良いので読んでみてください。最後に論語とウィーナーの著作から一節を引用しておきます。
子曰、過而不改、是謂過矣。(子曰く、過ちて改めず、是を過ちと謂う)
「生きているということは、外界からの影響と外界への行為との、絶え間ない流れに参加する、ということであり、我々は、その流れのなかの変遷の舞台であるに過ぎない。生きているということの、世界に生起する出来事に対する宇宙を超えた意味は、知識の絶え間ない発展と、その妨げられることのない交換に参加する、ということを含意する。(Wiener) 」
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