私たちが物事を考えたり、認識したり、人に伝えるための道具の一つとして言葉があります。震災以前も実は随分形骸化した言葉を使い、言葉とその指し示す内実との乖離を放置してきました。震災以降は様々な場面でそのほつれが露呈しました。たまにテレビを観ると「被曝、放射能、汚染、子供たちの甲状腺癌」などの言葉は意地になって取り上げない。かわりに「立ち直る、復興、故郷の再生等・・」美談の化粧を施した言葉ばかりが踊って気持ちがわるい。
事象と乖離した偽の言葉を使わない。乖離した言葉があればそれを正す。名を正さねばなりません。しかも一回かぎりでなくダイナミックな運動として常に瞬間、瞬間。
先週、家の犬が逝ってしまった。今から思えば異変だったと思いあたるふしはあるが、本質に気付かなかった自分の鈍感さに驚く。
震災以降、自分にとって「生きる」という言葉はキーワードとなり繰り返し考えていたが身近な「命」のことさえ自分の体や感覚でとらえるができていなかった。
写真は工房の近くに時々顔をだすジョウビタキとルリビタキのメス。最後はありし日の「郷」
もう三月も終わりになるというのに、なかなか暖かくなりません。それでも、植えておいたサクランボに花が咲きました。鳥の写真はチャンスに恵まれません、ひよどりだけが最近のものであとは去年のものでお茶をにごしました。
震災以降今までの前提が吹き飛び、メディアのこと政府の対応、等等・・目を白黒させているうち瞬く間に一年が過ぎ去りました。この頃、気になるのは責任のある人々のみならず、われわれ一般人も相当おかしな事になっていると思えてくることです。
上杉隆というジャーナリストをめぐって同業者から評論家などいわゆる知識人、一般人も巻き込みバッシング合戦がネット上で散見されます。今、日本の行く末をも左右しかねない状況のなか他人の揚げ足取りにいそしむ方々がこんなに広範にいたのかと、ちよっと凹みます。
ネット上でも同じ様な事を感じた方がいて、息子さんが出鱈目英語で歌ったクイーン歌まね映像をアップしたところ英語圏の人々から好意的なコメントがきたのだが、韓国の子供が J ポップの歌を日本語でアップしたら日本人から猛烈なバッシングにあうのを見て複雑な心境だったという体験談を記事にしていました。
何か日本人全体が自分の表面上の立ち位置に固執し今起きている事態から目をそむけようとしている様にみえます。皆がごく普通に子供が真っ直ぐに物事を見る様にできないものかと思う今日このごろでした。
今日はよく晴れ上がりましたが気温はまだまだ低い。休息日なので朝からレコードを聴きながら鉋の刃を数枚研ぎ上げた。
実は昨年の暮れに自分にご褒美でステレオのカートリッジを購入したのですよ。今までのものは冬にはあまり上手く再生できなかったので冬でもトレースに心配の無いものをと思っていたのです。レコードを聴くのが趣味の人間は再生音に違和感があると気になって作業などできませんが今日は音も鉋の研ぎもスムーズにできました。
あと鳥の写真ですが今年は何だか種類が少なめ。この辺ではヒヨドリ、アオサギ、あとはモズくらいしかシャッターチャンスにありつけていません。余談ですがアオサギの目怖いですね、ひよどりもファンの少ない鳥だと思いますが時々可愛い表情を見せる時もあります。